走り抜けよう、夢を抱えてーー「SPEEDBOY!」舞城王太郎を読んで

僕たちは自分の中に「重り」を持っている。多分、常識ってやつがそれだ。重りは僕たちを決めつけて、本当ならどこまでもシュンシュパパパと走り続けられる僕たちを、引き留める。その代わりに希望だとか夢だとかいうモノはどこまでも膨らませることができて、そのために僕たちはがんばれる。限界を超えられる。けれど、希望だとか夢だとかを膨らませすぎると僕たちは「悪く」なってしまう。夢に飲まれてしまう。だから、一緒に夢を追いかける相手が必要なのだ。ちょうど良いくらいの重りだけを持って。そうじゃないと何もかも置いてシュパシュパと走り去っていってしまうから。ちょうど良いくらいの夢や希望を膨らませて。あまりにも大きすぎると、自分が飲み込まれてしまうから。


長編のようで長編で無い、ちょっと不思議な短編集「SPEEDBOY!」。正直言って、これを読むとなんじゃこりゃ!とぶったまげてしまうと思う。多分、意味がわかんねーよ!と怒る人もいると思う。けれど、この作品はこういう物語なのだし、意味が分からないように書かれている(とあなたが感じた)のならば、それはそのままそういう物語なのだ、とするのが良いだろう。


この小説は七編から成っていて、成雄という人間離れした超足ランナーが主人公だ。けれど、その七編は一部の設定を共通の部分としているけれど、独立した物語を採っている。ように読める。どうでも良いのだ、きっとそんなことは。
それぞれ交互に出てくる「石」そして「白い玉」。読みすすめるうちに、「石」が僕たちを押さえつける重りやしがらみ、そして「白い玉」が僕たちの希望や夢なんじゃないだろうか?と思えてくる。けれど、それだけではない。
物語の中では、間接的に石が少女を救うこともある。一方で、白い玉が次々と周りの人達を飲み込んで殺していってしまうこともある。「石」と「希望」が、先の解釈の通りだとしたら矛盾なのではないだろうか?
そんなことはないと、僕は思う。それはきっと、希望やしがらみと言った物事をまた違った視点で表しているのだろう。家族の重みやしがらみといったものは、時に僕たちを救うこともある。縁によってどん底まで落ちていった僕たちを絡め取って拾いあげてくれることもある。一方で、希望や夢は際限なく膨らみ続け、それを無理にでも実現しようとすると周りの人間を次々と巻き込んでしまうこともある。


要はバランスなのだ、と僕は思う。何事も善悪、True Falseでは片付けられないのだ。それぞれのものはただそこに在るだけで、何も色は付いていない。色を付けて意味を付加するのは僕たちなのだ。
だから、夢や希望が膨らみすぎて欲望になりそうになったら、誰かと手を繋げば良い。ちょうどよい大きさを教えてくれる。だから、石が重くてどうしようもなくなったら、全てを放り出してもみればいい。きっと僕たちは今までにない速度で走ることができる。


けれど、この感想すらも、どうでもいいのだ。物事をありのままにみて、あなたが思うとおりに動けばいい。あなたが感じるままに動けば良い。何かあなたが物事に意味を見いだすことに、解釈することに、意味があるのだから。さあ走りだそう。僕たちには足が付いているのだから。

SPEEDBOY! (講談社BOX)

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